ひねもすのたり物語り

HSPとあれこれ

20年したらなくなっているかもしれない〝法事〟

先日祖父の一周忌に行ってきた。

私の両親が喪主(この場合も喪主というのかはわからないが)である。

こういう時でないと会うことのない親族が10名ほど集まり、寺でお経をあげてもらい墓参りをし、その後会食を行う。

私はこうした集まりがとにかく苦手である。

元々こういう場でのコミュニケーションが苦手で、じっくり話すのはいいのだが特に互いに興味もない話題を出して話をしなくてはいけないのが自分の中で納得がいかず、『無意味な時間』と感じてしまうのだ。

もちろん故人についての思い出話をするのであればいい。お世話になったとお礼を言うのもいい。しかし中には殆ど祖父と話しているのを見たことがないような親戚もいて、「義務で来ているのだろうなあ…」となんだか腑に落ちない気持ちになった。

 

本当に故人と縁があり親しくしていた人だけが集まればいいのに…

昔から続く慣習なのだろう。

行くことが親戚付き合いとして正しく、

行かないと白い目で見られてしまう(と感じる)のだろう。

 

ちなみにこの『法事』に関して驚いたことがある。

お寺から今後の法事の予定表なるものをいただいたのだが、なんと50回忌まであるのだ。

 一周忌→三回忌→七回忌→十三回忌→十七回忌→二十三回忌→二十七回忌→三十三回忌→五十回忌

 

50って…50年後ってこと!?自分がこの世にいない可能性も大きいじゃん!

両親には長生きしてほしいが、近いうちに私が取りしきることになるのか…

そしてその時には祖父・祖母・父・母とそれぞれ把握して執り行わなくてはいけないのか…?

いやそもそも世の中の人はそこまでしているのか??

あまり法事で休んでいる人を気にして見ていなかったが、もしかしてみな私が知らないだけで休みの日に行っているのだろうか…。

 

こう考えると法事とは何だろうと思う。

お寺にはt大切な収入源になるのだろうが、結局故人に届くものではなく、言い方は悪いが遺族の自己満足なんじゃなかろうか。いや、もちろん遺族の気持ちが静まるのなら必要であるということ前提での話だが。

私がもし近いうちに死ぬとして、死後そんなにお金をかけてお経をあげて欲しいものだろうか。その分のお金でおいしいものを食べてくれと思うのは生きている今だけか。

法事を行わないからといって故人を忘れることはない。感謝しないこともない。

なにかを見るたび食べるたび聞くたび訪れるたびふと「ああこれはあの人が好きだった…」と思い出す。

それじゃあダメなのか?

特に縁がなくても思い出がなくても、お金を出して高い会食と義務的な世間話をしなくてはいけないのか?

そう考えると葬儀のマナーやら喪服やらすべてがどうでもよく思えてくる。

 

お祝い事はともかく、葬儀関係は大切な人を失ったストレスや必要な手続きや片付けの疲労もあってとにかくピリピリとしている。お金が絡んでもめることもある。

もっとラフに、故人を送り出し悼むことはできないのだろうか。

 

日本はこうした『死』に対し慎みがないと『不謹慎!』『恩知らず!』とすぐに言い出す風潮があるように思う。それだけ真面目なのだろうが、それに縛られて本来の故人を悼むという目的がなくなっては意味がない。よりストレスが溜まり親族間で揉めるのは故人も望んでいないだろう。

 

似たようなものがあるな…と考えたところ、年賀状も同じかもしれない。

最近年賀状じまいが広がってきたが、以前は年賀状は送るのが礼儀正しいとされていた。

10年前は職場の全員に年賀状を書いていた(それぞれ一言添えて…)。

それが今は年賀状じまいが広がり、令和だなあと新たな時代を感じている。

忘年会、新年会、歓迎会、花見、職員旅行も減ってきた職場も多いのではないだろうか。

 

『本当はしたくないけどすることが常識だから』と、渋々していたことが少しずつなくなってきている時代(もちろんしたい人もいただろうが今の時代はしたくない人が多いのではないか)。

 

もしかしたら法事やそれに関するマナーも少しずつなくなっていくのかもしれない。

 

なくなっていってほしいなあ…

 

リモート葬式とかは近いうちになりそうだわ…

 

でもお寺は困るのかしら…

 

 

 

 

 

 

不調の波を断ち切る7選

こんばんは。

 

好不調には波があると思うんですが、昨日は不調のどん底でした。

そういう時って、うまくいかないことが続いたり、

それでストレスがたまったり焦ってしまったり、

周りが敵に見えてしまったり、

他人がよく見えて落ち込んだり……あーーーもうどうしようもない!!

ってなります。

 

以前はその夜は引きずって、次の日もしばらく引きずりながらだんだん調子が上向きになるのを待っていたのですが、

最近ふと切り替えが早くなってきたなと感じるようになりました。

昨日あんなに荒れていたのがウソのように、今日は一気に好調です。

おそらく、好不調の波は変わらず一定の期間で来ているのですが、

不調から好調に上がるまでの速さが速くなって、

好調の時はゆっくりになっているのかなと思います。

そうなれば自然と好調の方が多くなりますよね。

 

嬉しい気づきだったので、今後また不調の時自分の助けとなるように

備忘録程度に

《不調の波を断ち切りたいときの行動》

を記録しておこうと思います。

もし不調だ!どうにかしてネガティブスパイラルに陥らず

メンタルを保ちたい!切り替えたい!

という方がここにたどり着いたがいらっしゃったら、一つでも試して効果のあるものがあれば幸いです。

 

 

1 不調の波を自覚する。

  まずはここから。「あーーこの感じは不調の波が来ている…」と思うだけで、

  気持ちが楽になります。ずっと続くわけではないこと。自分のせいではなく、

  仕方ないということ。無理しないでやろう、と思うだけでストレスが減ります。

  また、覚悟ができると、思わぬトラブルも少し冷静に対処しやすくなります。

 

2 いつものルーティーンをする。

  以前の私はこれをしませんでした。メンタルが崩壊した時、帰ってベッドに

  ダイブして大泣きしたり、ぼーーーっとして考えるとネガティブなことばかり

  考えてしまうので何もせずとにかく寝てしまいました。でもそうすると、余計

  『ダメな自分』に落ち込んでしまうんですよね。そして次の日愕然とします。

  人によっては寝た方がいいかもしれませんが、私はいつも通りのルーティー

  をこなすようにしてから気持ちが落ち着くようになってきました。風呂、夕飯

  (これは気分によって簡単な物でもいい)、茶碗を片付ける。一日のこと、失敗し

  たこと、腹が立ったこと。考えながらでもいいんです。ダメな日だった、から

  こそいつものことをすることで『いつも』に戻れるようにする。

 

3 持ち物を取り換える

  これは気持ちの問題でもありますが、私はよく『ダメだった日』に身につけてい

  たものを替えたりします。捨てる必要はないんですが(そんなことをしていたら常

  に新品になってしまう(笑))、例えば毎日しているシュシュを次の日別のものにし

  たり、持ち物ではないですが、髪の分け目や髪形を変えたり、カバンを替えたり、

  出勤する道を変えたり。昨日とは違う日にしよう、という願掛けですね。でも意

  外と行動に起こしたことって、無意識でも気持ちに変化を与えてくれると思いま

  す。

 

4 気持ちを書きだす

  これはしている方も多いのではないでしょうか。ネガティブな言葉が多く出てし

  まうと思うので知っている人がいるSNSなどは向いていないです。私は流すだけ

  で交流のないアプリを使用したり、昨日はこのようにブログの方に考えや自己分

  析をのせました。手書きの方がいい方はノートもいいと思います。まとまりは必

  要なくて、とにかく自分が考えていること、何にどんな気持ちを抱いたのかを

  ひたすら書いていきます。するとどこかで「もういいかな」と満足いく時が来る

  んですよね。実際に書き疲れたというのもあるかもしれません。もしかしたら書

  いたり打ったりするのには多少の力も集中力も必要なので実際に疲れるのかもし

  れません。でもそれがストレス発散になるのなら、また冷静に自分について考え

  られるならとても簡単でいい方法ですよね。

 

5 余裕をもって次の日に向かう。

  バタバタしてしまった日、トラブルが多かった日。その次の日はゆっくり過ごせ

  るように。乱れたペースを戻せるように。早く寝て、早めに起きるのもよかった

  です。また出勤時間も少し早めにすることで、例えば不調の波のせいで翌日も早

  々にトラブルが起きたとしても時間に余裕があることで対処できます。まさに今

  日の私はそんな感じでした。早く行かなかったらまたいろんなことに追われてバ

  タバタしたスタートだったと思います。

 

6 小さなタスクをこなす

  落ち込んでいるとやる気にはならないと思いますが、もし次の日少しでも回復した    

  のなら、とにかく溜まっているタスクをこなしていくこと。それがまだ急ぎでない

  物だとしても、余裕があったらやってみると自分で好不調の波をコントロールして

  いる感覚になります。簡単なことでもいいんです。ごみをまとめるとか、買い物を

  するとか、洗濯をするとか、玄関をはくとか。「できた、だから前進している。不

  調ではない」と思えると、大きなこともスムーズに進められるようになります。

 

7 神社に参拝!

  ここにきてそれ!?(笑)って感じですが、私は結構気持ちを切り替えたいときと

  か、不安な時は出勤の途中で神社に寄ることがあります。「え…神様とか信じてる

  の?」と思う方もいると思いますが、初詣に行く、そんな感覚です。信じる信じな

  いはいいんです。「行ったから大丈夫ということにしよう」「お願いした、何か

  いいことあるかも」「なんとなく境内の空気を吸うときれいな気がする」それでい

  いんです。もうできることはやった、切り替えよう。その気持ちが大事じゃないか

  なと思います。まだ悔しさや悲しみはあるけれど、どこか、何かをきっかけに切り

  替えなくては。本当はわかってるんですよね。そのきっかけは何でもいいんです。

  もしものときは神社を利用させてもらいましょう!

 

 

うまく考えをまとめるのが苦手で、長々と綴ってしまいましたが、

昨日の私が不調から抜け出したい!と試したこと7選でした。

またなにかいいものが思いついたらやってみたいと思います。

不調の時は本当につらくてすべてが嫌になるのですが、

抜け出せたときは本当に気持ちいいですよね。

もし今気持ちが落ちている方がいたら、上向きになれるよう応援しています。

 

私もまた来るべき不調の波に備えていろいろ予防線を張っておきたいと思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

(もし何か他におすすめの行動などありましたら是非教えてください^^)

 

明日もいい日になりますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの自己否定思考

私にとって、

これがどうにかなれば、もっと生き方変わるだろうにな……と思うのが、

『自己否定思考』だ。

 

いつのころからか、ふと気がつくと

『自分より他人が正しい』

という考え方をするようになっていた。

 

もちろん、初対面の相手や信用していない相手に対してはそんなことはない。

なので詐欺などにかかったことはないのだが、

職場の同僚(先輩・同期)から「Aでしたよね」と言われると

自分の記憶と違っていてもうなずいてしまうのだ。

(先輩や同期という年齢的なくくりよりも、無意識に『自分よりできる人』『いつも正しい人』というくくりなのかもしれない)

 

先日、「昨日あなたにも○○してって言ったよね?」と先輩に言われたことがあった。

私は聞いた記憶がなく、その○○をしていなかったのだが、

よく話を聞き逃すことも過去にあったため、

「聞いてないです」とはっきり言うことができなかった。

「聞いた覚えがないんですが…」と濁しつつ言うと

「え!?でもAさん(○○をするもう一人)は聞いたって言ってたんだよね。言ったと思ったんだけど」

とさらに言われる。

 

そのやりとり、その空気がもう怖くなってきて、耐えられない私。

・言ってない、ということになれば先輩のミスになる。

        ↓

 おそらく先輩としては「自分は言ったが、後輩が忘れていた」の方が都合がいい

        ↓

 私は明らかに言われた覚えがないが、これ以上押し問答になるのも(そして先輩からすればいつもミスをする後輩が忘れている方が可能性が高い)辛い。

        ↓

 もう私が聞き逃したことにして謝ればいいのでは??

 というかここまで先輩が強気で言うならやっぱり私が間違ってるのでは??

 

と思考が働いたところでいやいやいやいや・・・・・!!!と我に返る。

 

冤罪着せられる人の思考と一緒じゃないのこれ!!!!!!

 

よく取り調べで問い詰められてやってもないこと認めて楽になろうとするやつ!!!

 

 

 

「ちなみに、いつ言いに来たか覚えてますか?私が何してるときとか……あと、なんて答えました??」

 

 

半分自分を疑いつつ、もし本当に言われていたのなら思い出すきっかけになれば…

と試しに先輩に聞いてみたところ、

 

「・・・・・・・・覚えてないなあ・・・・・・ごめん、言ってなかったかも」

 

 

 

勝利のガッツポーズ!!!!!!!

 

 

 

ああ、自分は今回は間違ってなかったんだとホッとしました。

 

 

 

 

 

正直、自分の記憶や行動にめちゃくちゃ自信がない。

 

 

物忘れが多いし、

あちこち置き忘れたり、

聞き間違えも多くて、

変に理解していたり、

コミュニケーションも苦手、

勘違いだらけ。

 

 

たぶんそういう経験が、積み重なって、

ミスをした時に毎回100のダメージを受けていて(実際5だとしても50だとしても)

自信がなくなっていったのだと思う。

 

ちなみにこういう人って、

合っている時、感謝されたときは5しか自信にならない(実際50だとしても100だとしても)。

 

でも他人ができたことは5のすごさでも100に感じてしまう。

そして、自分と比較して落ち込むところまでがセットなんです(笑)

 

 

そりゃあ自己肯定感は下がっていく一方だよなあと。

いくらできたことをコツコツ積み重ねていっても5ずつ。

そして積み重ねてもたまにミスをすると-100。一気にマイナスに。

 

 

 

もっと自分をほめてあげよう。

そのために何をしたらいいか。

少し自分と向き合ってみようと思う。

(悩んでいる人の手助けになれるような答えを出せず、すみません(笑))

 

新しいことを始めたり、

以前始めたことを継続して力にしたり。

一日の目標を立ててみたり。

 

 

 

それから、自分が合っている!と感じたのなら

それを否定してまで他人に合わせなくていい。

 

 

もし自分にも非があるのなら、次はどうすればミスしないか考える。

でも相手にも非がある時もある。

「私は悪くない!あなたが全部悪い」と言われても

相手も悪いと思うのならそう思っていていい。(これも先日あった話)

 

全部全部相手に言われたことを鵜呑みにしないように。

素直さも大事だけど、自分が思ったことを大切にするのも大事。

 

考えて

考えて

「相手の言っていることも一理あるな」と思う時は受けとめる。

 

考えて

考えたけど

「いや、やっぱりおかしいよ!」って気持ちまで無理やり相手に合わせる必要はない。

 

思ったことは言っていいし、

途中で考えを改めたなら変えてもいい。

 

気をつけなくてはいけないのは

『自分の気持ちや意見を否定してまで相手に従うこと』

 

 

それはしないように。

自己否定思考を少しずつ直していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこで話されました?私なんて答えました?」

 

 

 

 

 

恵方巻を買おうとしてふと我に返った話

 

今日は節分ですね。

コミュニケーションが苦手な私にとってはいい話のネタなので、

朝同僚と二人きりになって沈黙が流れた時にはここぞとばかりに

恵方巻食べるんですか?」

って聞きました。(質問の仕方からにじみ出るコミュニケーション力)

 

他の同僚との会話では「○○の予約した!」「楽しみ!」と盛り上がってたので(私以外)てっきりいい反応が来るかと思いきや、「買わない」「信じていない」とのこと。

そりゃそんな人もいるか。でもちょっと意外でした。

クリスマスのケーキやチキン程浸透していないのか…むしろこっちの方が意味がありそうだけど。

 

そうして不発に終わった恵方巻会話。

勤務帰り、何となく節分だし、豆まきするわけでもないから恵方巻でも買って帰ろうか…とスーパーに寄り道。

別にね、ただちょっと行事を盾に、贅沢したいだけなんだよね。あと夕飯をおさぼりしたい。

多分行事のケーキやご飯って、そんな気持ちが8割を占めていると思う。

「いい一年でありますように!」もあるけどね、

「おいしいもの食べたーーーい!」「たまには贅沢したーーーーい!」

の気持ちがないとは言わせない。

七夕とか子どもの日も、もはや意味がなくても当たり前に売られているスイーツ(笑)

 

と言うことで私も例にもれず恵方巻をゲットしにいざ。

イワシの頭とヒイラギとか飾ってる家は少ないけど

恵方巻はみんな買っていく。賑わう売り場。

どれにしよっかなー…なんて悩む私。

いやこんな長いの食べきれないでしょ…ハーフはないのかしら

大葉入ってるのかー苦手だなー

揚げ物は邪道な気が…

納豆巻きは好きだけどせっかく贅沢をしたいのに負けた気が…

 

とかいつもの通りあーだこーだ悩んでいて。

ふと、我に返ったのです。

 

私、海苔巻きそんな好きじゃないな・・・?(;・∀・)

 

いや、決して嫌いではない。

嫌いではないんだけど、お恥ずかしい話、味覚音…おいしいと感じる範囲が広いので、

ああやってまとめて出されると

「おいしいのは間違いないんだけど結局何入ってた…?」

ってなるんです。なりませんか?なりませんか(笑)

 

ふと見ると横にはパックのお寿司。

しかも恵方巻より若干お手頃。なのに好きなネタがたくさん!

いつもなら高くてためらうけど、恵方巻買う予定だったこと考えれば安い安い♪

 

と、あっさり握り寿司に路線変更しましたとさ。

 

不思議なことに、みんな握り寿司のところにはいかないんだよね…

ひな祭りの時には一瞬でなくなっていたのに!

きっとひな祭りの時に太巻きを並べても売れないんだろうなあ。

『節分には恵方巻だから』っていう行事食の力、すごい。

 

お寿司に心弾ませながらの帰り道、

朝の恵方巻を「買わない」と言っていた同僚を思い出した。

あの時私はなんて言ったか。思ったか。

そして結局握り寿司を買った自分。

予約し楽しみにしている別の同僚。

 

みんなそれぞれだ。

 

ふと、この構図は結婚とも似ているなと思った。

 

皆が結婚していれば、つい結婚しなければ…と思ってしまうし、

結婚している人からすれば「結婚しないの?」「結婚した方がいいよ」となる。

でも結婚することに魅力を感じない人もいて、

そんな人がしたくもない結婚をする(好きではない恵方巻を買う)のは果たしてどうなのか?

同性との結婚に魅力を感じるのであればそちらを選択してもいい(みんなが買う恵方巻ではなく握り寿司を買う)

そもそも結婚したくないのならしなくてもいい(節分の日だっていつも通り過ごしたっていい)

 

それぞれに考えや嗜好があって、

たとえ『世の中それが当たり前』『昔からそうしてきた』ことであっても

否定することはできない。

 

伝統行事や、イベントごとが多い日本だから難しいのかもしれないけど、

それも多様性の一つだろうなと思った。

 

私自身「○○なのに△△しないの?」と言ったり思ったりすることが多いので、

そういう人もいるよね、と考えられるようになりたいものだ。

 

※もちろん、やりたい行事は『やりたいから』やればいい。

 伝統行事を否定したいのではなく、まわりに流されるのではなく自分の意志で動ける人になりたいという話です。

 

 

 

 

他人の怒りは他人のもの。

感情をぶつけてくる人が苦手だ。

 

些細なことなのに大げさに責めてきたり、

怒ったところでどうしようもないことを声を荒げて言ってきたり、

理不尽なことを言ってきたり。

 

必ずまわりにそんな人はいて、

私はその人の感情に圧倒されて、

受けとめた怒りや不満はお腹の中にドロドロとたまっていく。

その人はしばらくするとすっきりしたのか

機嫌が直ったのか

笑って話しかけてくる。

 

楽しさも、怒りも、いろんな感情が表に出やすい人なのだろう。

でも私はもらったドロドロを消化できずにいて、

すぐに笑顔では応じられなくて、

そうすると引きずっている私を「めんどくさい」と不機嫌な表情で引き離す。

 

私の中のドロドロがまた溜まる。

 

 

「うざいんだけど」「勝手にすれば」「本当、嫌い」「頭おかしいんじゃない」

 

別に自分に向けられた言葉じゃなくても、

誰かが誰かに感情的になってそんな言葉をはいているのを見ると

苦しくなる。

それが仲のいい人であればあるほど。

その人にとっては大した言葉じゃないのかもしれないけど、

そんな言葉を言うその人の心理状態がつらくなる。

 

幸せな人、満たされている人はそんなことは言わないだろうから、

その人は現状に不満があるんだろうな、と。

 

祖父は理不尽なことでしょっちゅう声を荒げる人だった。

母が鍋のふたを落として音を立てただけで、大声で詰っていた。

戸がしっかり閉まっていないと怒鳴り、

魚の調理法で怒り、自分が家の大黒柱であることをいつも主張していた。

 

機嫌がいい時には孫の私には優しい祖父だったが、

小さい頃は何が怒りの引き金になるのか怖く、

祖父と母が実の親子なのに仲が悪いことがとても悲しかった。

 

そういう人に言い返しても、

正論であればあるほど腹を立てるから、

こちらが折れるしかないのだ。

母を見ながら自然とそう学んできたのかもしれない。

 

ただ、そこで『自分が悪いのだ』と思ってはいけない。

怒りの感情は、他人に押し付けるのではなくて、

自分で処理しなくてはいけないもの。

逆に言えば、他人の怒りの感情はその人の物であって、

こちらで引き受けて持てあます必要はない。

 

他人への悪口も、その人が他人の言動を受けとめる余裕がないだけ。

私がその人のことを嫌いでないのなら同調する必要はないし、

胸を痛めなくてもいい。

「ああ、この人は今自分に余裕がないし、人生うまくいっていないんだな」

と思っておけばいい。

 

自分がそうならないように。

他の人に負の感情を押し付けないように。

ストレスは自分で解消できるように。

自分の行動を肯定して、自分の考えで行動できるようにしたい。

 

 

 

追記

 

怒りの感情は受け取る必要はないが、嬉しいこと・楽しいことはどんどんもらっていきたいし、悲しみは受け取らず、寄り添ってその人の慰めになればいい。

 

 

 

 

 

HSPと部活

久し振りに『みんテニ(みんなのテニス。プレステのテニスゲーム)』をした。

 

直感的に反射的に操作するゲームなので、何も考えたり頭を使うことがなくてとてもいい。

ただ、ゲームには頭を使うことがないため、ラケットを振り回し勝利しながら全く別のことを考え続ける。

 

テニスゲームをしていて思い出すのは中学の部活。

私はバドミントン部だった。

正直運動は苦手で、走るのも好きじゃない。本当は文化部がよかったのに親が体力つけなさいって運動部以外認めてくれなくて。

バドミントン自体は好きだけど、

ダブルスが基本だからミスすればペアの子の反応をうかがったり、

負ければ自分の下手さに自信をなくしたり、

かといって本気で練習するわけでもなく、

目立つのも嫌だから上手な子が活躍するのを応援したり。

そもそも勝負自体苦手なんだよな・・・コーチも鬼のように怖いし。

試合の時は審判やらなきゃいけない。コールミスったら先輩の目も怖いし、

そもそも審判ってすごい注目されるし、パニックになっちゃうし人前で注目されながら話すとか私にすべて委ねられているとか怖いーーー。ルールもスコアの書き方も覚えられない!!

筋トレもランニングも程よく無理せずさぼろう・・・。

 

そんな子だった。

今思えばもったいないなあと思う。もっと楽しんでやればよかったのに。

もっと先輩ともコーチとも楽しく関わればよかったのに。

技術を磨けばよかったのに。

あの頃の自分を俯瞰してみると、ばかだなあ、恥ずかしいなあ、一緒に部活動したくないなあと叱咤したくなる。

 

コーチから見えないところでさぼるのも、休憩中や部活後に友だちと漫画の話をするのも、試合で早々に負けても悔しがらずむしろ「まあこんなもんだよね、あとはゆっくり応援しよう~」と思っていたのも、当時はそのスタイルがいいと思っていたかもしれないけれど、本当に、本当に『黒歴史』として葬りたい。

 

高校では念願の文化部に入った。

けれどそこでも結局部活動の中で好きなことを極めることはしなかった。

本気で賞を狙ったり、技術を磨こうとする友だち、時間を削って顧問をしている先生からすれば腹の立つ存在だったろうな(実際顧問は一度ブチ切れている…本当あの時はすみませんでした)。

 

せっかく好きなことを磨けた時間。

私は友だちとふざけたり、おしゃべりしたり。

自分たちはよくても、おそらくまわりに嫌な思いをさせてしまった。

 

以下は、HSPと言うことを含めた考察(これもテニスゲームしながら)だ。

言い訳にしか聞こえないのはわかっているけど、

個人的には本当に考察である。

 

私は見られながら何かをするのが苦手だ。

どう思われているか、些細な反応を気にして勝手に考えて落ち込んだり焦ったりしてしまうから。

 

おそらく、その状況から考えるに、部活動という『常に他人がいる・見られているかもしれない』中で全力でする、と言うことができなかったんだろうと思う。

コートは二面。試合となれば必ず注目される。うますぎても、はりきりすぎても、楽しそうにしすぎても、先輩や友だちの目が気になる。注目されると自分を嫌う人が必ず出てくる。

そして、友だちとの関係作りもしなくてはいけない。あの子とあの子は仲がいい、悪い。この子はどんな子だろう、この子は私のことを嫌いなのか?

 

そうして、結局私の中で部活動は『バドミントン』ではなく『人間関係を作る場』になってしまったんだろう。

 

「勝ったら午後まで残らなくちゃいけないよ、早く帰りたいね」と言う友だちがいれば

「そうだね、」と返していたし、熱心に部活をしている人がいても、仲のいい友だちがマイペースに好きなことをしていれば一緒にふざけていた。

 

あくまで友だちと関わる場、だったのだろう。

仲が深まるのなら。好きな人が楽しく一緒にいてくれるなら、他はどうでもいい(と言うかそもそも性格的に人間関係に気を使いながら何か熱心に取り組むのが難しい)。

 

そう考えると、当時の自分なりに頑張ったのかもしれない。

部活の意味は人それぞれだろう。

特技を見つけたり、

何かに熱中する姿勢を身につけたり、

極めようと努力する大切さを学んだり、

学校生活を楽しくしたり、

もちろん友だちと楽しく過ごすためにあったっていい。

 

イヤだったこと、辛かったこと、今考えると封印したくなる恥ずかしい態度もいろいろあるけれど、それも自分の一部として受け入れていこう。

 

部活をする機会はないけれど、

もし今後何かに挑戦する機会があったら、

斜に構えて恥ずかしい態度を取らないように。

もったいない時間を過ごさないように。

他人の意見に流されないように。

人の目を気にしすぎないように。

 

全力で楽しんで前向きに挑戦したいと思う。

 

 

 

 

 

分岐点で日々立ち止まる

HSPの特性の中でも、私的に強いなあと思う『深く考える』性質。

AかBか?分岐点がある時、私は日常生活で本当にいちいち悩みます。

 

例えばスーパーでの買い物。

「今日は買わない!」と一度決断したものを「いや、やっぱり買おう」と戻って買ったり、反対に「やっぱり買うのをやめよう」と戻したり(コロナ禍になり極力戻すのはやめるようにしましたが)。同じ通路を行き来したり立ち止まって考え込んだりするので、特にコンビニなんかではなかなか怪しいのではと思います(そのうち店員さん、私のこと怪しんでるんじゃないか……とか店の中で考えだすので本当にキリがない)。そして最終的に買おうと思っていたものを忘れていたりする……。

 

例えば休日。

「今週仕事頑張った分、おいしいの贅沢に食べるぞー!」とランチする場所を決めておきながら、買い物しているうちに「いや、でもこんな時間だしやっぱり買って帰ろう」、そしていざ総菜売り場に行くと「家で作った方が安いしおいしいな……」と、結局家に帰り、12時に外でランチの予定が気づけば15時に家でご飯(ご飯?)というのも、もはやいつものこと。

 

こんな些細なことで悩むのですから、人間関係が絡んでくるとさらに悩みます。

失礼なことを言ったらどうしよう、不謹慎なこと言ったら、勘違いしたこと言ったら、気に障ったら……

ただ、不幸なのか幸いなのか、基本会話ってレスポンスが早くないと成り立たないので、頭の中必死に回転させて『こっち……か?』と選択します。

相手によって緊張したり、「間違えられない!」と思うと頭真っ白になり、選択肢がAかB(おそらくAが模範解答だろうと自分でも何となくわかっている)なのになぜか「B」か「C(どこから出てくるんだ……)」と答えてしまうこともあります。

 

それと、相手が「B」と期待しているのでは?と思うと「A」だと思ってもそういってしまうこともあります。

 

 

 

そういえば先日、こんなことがありました。

 

事務室を借りて残業しようと入ったところ、先輩が先に仕事をしていました。

 

私「お疲れ様です」

先輩「お疲れ様。仕事するなら、そこにさっき沸かしたお湯があるよ。まだあったかいと思うから、飲みながらやったら?」

 

なんて優しい……!すぐに帰るつもりだったので最初は飲むつもりはなかったのですが、先輩の言葉に嬉しくなり、私はお言葉に甘えてカフェオレを飲むことに。

 

コンロの上のヤカンを手に取り、注ぐ…………んん?(^-^;

 

何となく手に取った時から「熱くはないな」と思っていたものの、「さっき沸かした」と言うくらいだから大丈夫だろう、と注ぐ………………んんんん???(笑)

 

全然湯気が立たない☆

 

ぬるくて粉が溶けない☆

 

 

先輩はこちらには気づいておらず仕事に没頭。

 

こういう時『普通』と言ったらあれですが、皆さんどうするんでしょう(笑)

ちなみに嫌がらせとかするような間柄でも人柄でもないのでその線はないのですが。

が。うーん(笑)

 

「先輩!!ぬるいですよ!(笑)」と笑って知らせるのか。

  →仕事邪魔するのも謝らせるのもなんだかすごく申し訳ない。

   と言うか入れる前に気づけ。そもそも『すぐ沸騰するし、お湯残ってるから

   使えるよ』って意味だったのかもしれない。(今打っていてそんな気がしてき

   ました(笑))

 

何も言わず、捨てて再沸騰させ自分で作り直す、のか。

  →先輩さすがに察しそう。気まずい。

   捨てるのも忍びない。謝らせるのも申し訳ない。

 

 

どっちかだと思うのですが、どっちなんですかね。

 

 

ちなみに私はしばらく考えるために固まり、且つ先輩には気取られないようにしつつ、

 

 

 

 

 

C 何も言わず、うっすいぬるま湯(粉が溶けていない)を何となく飲みました。

  

 

 

そして仕事を終え、底にたまった粉を洗い流して何食わぬ顔で退勤。

 

 

何をしてるんだろう……………(笑)

カップを洗いながら笑えちゃいましたよね。

 

 

でもまあ、今思えばそれが自分のベストだったのかな、と。

二人で笑って済むことだったかもしれないけれど、

どこか「もしいやな気分にさせたら」「仕事の邪魔になってしまったら」と考えると。

また、「お茶飲もうよ」と言う先輩の優しい声がけをそんなオチにはしたくなかったんでしょうね。

先輩に「後輩にいいことした」と思っていて欲しかったというか(そういうとなんだかめちゃくちゃ態度でかいやつみたい………………説明がへたくそだなあ………………)

 

人によっては「偽善じゃない?」「逆に失礼じゃない?」とも思うかもしれません(私はよく友だちに言われます(笑))。でも、相手のため、と言うよりは自分がもやもやしないための、落ち込まないための、選択肢を選んだのかなと。それと、「純粋に先輩からの優しさが嬉しかった。だから余計な水は差さず、そのままの空気でいたい」と言うのもありました。

 

言い訳みたいだし、

 

 

うまく言えないけれど。

 

 

 

自分はCを選んだ自分をそんなに嫌いじゃないから、

 

 

 

 

 

まあ時にはそんな少し外れた選択肢もいいのかな、と思います。

 

 

 

 

以上、いつも以上に説明しがたい考え事でした。

 

 

 

 

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