先日祖父の一周忌に行ってきた。
私の両親が喪主(この場合も喪主というのかはわからないが)である。
こういう時でないと会うことのない親族が10名ほど集まり、寺でお経をあげてもらい墓参りをし、その後会食を行う。
私はこうした集まりがとにかく苦手である。
元々こういう場でのコミュニケーションが苦手で、じっくり話すのはいいのだが特に互いに興味もない話題を出して話をしなくてはいけないのが自分の中で納得がいかず、『無意味な時間』と感じてしまうのだ。
もちろん故人についての思い出話をするのであればいい。お世話になったとお礼を言うのもいい。しかし中には殆ど祖父と話しているのを見たことがないような親戚もいて、「義務で来ているのだろうなあ…」となんだか腑に落ちない気持ちになった。
本当に故人と縁があり親しくしていた人だけが集まればいいのに…
昔から続く慣習なのだろう。
行くことが親戚付き合いとして正しく、
行かないと白い目で見られてしまう(と感じる)のだろう。
ちなみにこの『法事』に関して驚いたことがある。
お寺から今後の法事の予定表なるものをいただいたのだが、なんと50回忌まであるのだ。
一周忌→三回忌→七回忌→十三回忌→十七回忌→二十三回忌→二十七回忌→三十三回忌→五十回忌
50って…50年後ってこと!?自分がこの世にいない可能性も大きいじゃん!
両親には長生きしてほしいが、近いうちに私が取りしきることになるのか…
そしてその時には祖父・祖母・父・母とそれぞれ把握して執り行わなくてはいけないのか…?
いやそもそも世の中の人はそこまでしているのか??
あまり法事で休んでいる人を気にして見ていなかったが、もしかしてみな私が知らないだけで休みの日に行っているのだろうか…。
こう考えると法事とは何だろうと思う。
お寺にはt大切な収入源になるのだろうが、結局故人に届くものではなく、言い方は悪いが遺族の自己満足なんじゃなかろうか。いや、もちろん遺族の気持ちが静まるのなら必要であるということ前提での話だが。
私がもし近いうちに死ぬとして、死後そんなにお金をかけてお経をあげて欲しいものだろうか。その分のお金でおいしいものを食べてくれと思うのは生きている今だけか。
法事を行わないからといって故人を忘れることはない。感謝しないこともない。
なにかを見るたび食べるたび聞くたび訪れるたびふと「ああこれはあの人が好きだった…」と思い出す。
それじゃあダメなのか?
特に縁がなくても思い出がなくても、お金を出して高い会食と義務的な世間話をしなくてはいけないのか?
そう考えると葬儀のマナーやら喪服やらすべてがどうでもよく思えてくる。
お祝い事はともかく、葬儀関係は大切な人を失ったストレスや必要な手続きや片付けの疲労もあってとにかくピリピリとしている。お金が絡んでもめることもある。
もっとラフに、故人を送り出し悼むことはできないのだろうか。
日本はこうした『死』に対し慎みがないと『不謹慎!』『恩知らず!』とすぐに言い出す風潮があるように思う。それだけ真面目なのだろうが、それに縛られて本来の故人を悼むという目的がなくなっては意味がない。よりストレスが溜まり親族間で揉めるのは故人も望んでいないだろう。
似たようなものがあるな…と考えたところ、年賀状も同じかもしれない。
最近年賀状じまいが広がってきたが、以前は年賀状は送るのが礼儀正しいとされていた。
10年前は職場の全員に年賀状を書いていた(それぞれ一言添えて…)。
それが今は年賀状じまいが広がり、令和だなあと新たな時代を感じている。
忘年会、新年会、歓迎会、花見、職員旅行も減ってきた職場も多いのではないだろうか。
『本当はしたくないけどすることが常識だから』と、渋々していたことが少しずつなくなってきている時代(もちろんしたい人もいただろうが今の時代はしたくない人が多いのではないか)。
もしかしたら法事やそれに関するマナーも少しずつなくなっていくのかもしれない。
なくなっていってほしいなあ…
リモート葬式とかは近いうちになりそうだわ…
でもお寺は困るのかしら…