ひねもすのたり物語り

HSPとあれこれ

妊娠出産への恐怖感がえげつないんだけどって話

子どもの時、自分の子どもに名付けたい名前をよく考えていた。

 

同時に、何かのきっかけで出産のドキュメンタリーを見てしまい、

壮絶さに感動なんて一ミリもわかず、ただただ恐怖心を抱いた。

母親は目を潤ませながら、あるいは笑いながら

「あんたは逆子で大変だったんだから」と。

大変って、これ

拷問じゃん、地獄じゃん…絶対出産しない。無理だ。怖すぎる。

 

でも子どもは欲しいな。

そんな相反する気持ちを抱えた子ども時代。

 

 

病院自体がそもそも苦手だった。

大暴れして押さえられていたのを覚えている。

医者にも怒鳴られた。それがさらにトラウマ。

病院は怖い。

怖い。

大人になってさすがに注射は平気になった。

でも歯医者はいまだに怖い。

優しい歯科医院を見つけて通っているが、

それでも歯を抜く、虫歯を治療するとなると心臓がバクバクして

手は冷たくなる。体が強張る。息苦しくなる。

 

大人になって子宮がん検診を定期的に受けるようになった。

最初は歯医者同様本当にしんどかった。涙も出た。

けれど少しずつ慣れてきた。

胃カメラも飲んだ。

あれはほんとに無理。

精神的と言うより、物理的に体が受け付けなくて。

まだ大丈夫と言われる鼻からのカメラなのに吐きかけた。

麻酔も怖い。そのまま目覚めなかったら、とか。

手術は今のところ経験ないけれど、

リアルに腹を裂く様子とか、臓器を動かす様子とか想像してしまい、

自分が手術するわけでもないのに死を覚悟して怖くなる。

 

 

大人になり、付き合う相手ができた。

 

結婚や子どもの話に触れたとき、

ふとそれまでなんとなく蓋をしていた妊娠と出産への恐怖心が、またよみがえってきた。

 

ああ、付き合った先にはそれがあるのか。

 

急に目の前にあの恐怖心が現れた気がした。

 

 

調べると、出産への怖さは妊婦の多くが抱えることがあるらしい。

また、トコフォビアと言って出産恐怖症なるものもあるらしい。

 

もちろんそれもあるのかもしれないが、

私の場合、出産だけの怖さではないことに気がついた。

 

妊娠時点で、怖さと言うか嫌悪感がある。

 

 

受精し、胎児ができ、

自分が知らないうちに体内で起きている変化。

 

体の中にいつのまにか生まれている命という異物感。

 

そこから悪阻が起き、

腹が徐々に膨らみ、

見えないところで見えないものが育っていく。

自分の体なのに、

別の生き物がいて、体のスペースを広げながら大きくなっていく。

 

子どもが好きなはずなのに。

 

奇跡なんて思えなくて、

ただただ怖い。

 

なんでこんな風に考えるようになったんだろう。

 

あの人との赤ちゃんが欲しい

自分の子どもぜったいかわいい

どうやったらそんな風に考えられるのだろう。

 

 

 

HSP気質が関係すると、

またさらに別の怖さもある。

 

妊娠中、赤ちゃんを守らないとという強い使命感。

転んでしまったら、ぶつけてしまったら。

 

そんなことを考え四六時中気を張って40週も過ごすのか。

 

そして生まれたら?

 

病気を持って生まれたら?

生涯を持って生まれたら?

事故に遭ったら?

ケガを負ったら?

犯罪に巻き込まれたら?

犯罪を犯したら?

私か旦那さんどちらかが死んでしまったら?

 

たぶんずっと不安と緊張に苛まれる。

 

今でさえ、

誰かのミスも「私があの時こうしていれば」「私がこういわなかったから」と責任を自分に押し付ける癖があって

 

何をするにも「完璧にやらないと」「ここができなかった」とできなかったところにばかり目を向けてしまって

 

常に人の目を気にしている。

 

 

この性格をどうにかしないと

 

 

おそらく『子育て』につぶされてしまう。

 

 

常に気を張って子どもを見張り

危ないことはさせず

マナーを指摘されないようにしつけしすぎて

他人に迷惑をかけないように厳しくしてしまい

なにかうまくいかない育ちがあると「私が悪い」と責める。

旦那さんにイライラをぶつける。あるいはぶつけられず、ため込んで爆発する。

 

 

 

そんな未来が、確実に見える

 

 

 

心配しすぎ、じゃなくて、

今の私のままだと

確実にこうなる。

 

 

で、それを今自覚してしまったから

 

『変わらない自分』にさらに自己嫌悪になる。

 

 

・自分を認められる

・自信がつく

・7割でもいいと思える

・人の目や空気を気にしない

 

それができるようになったら、恐怖心は少し和らぐのだろうか?

 

産んでもいいな、育てたいなと思えるのだろうか。

 

 

といっても、年齢的にのんびりしている時間もなく。

 

 

先日カウンセリングに通い始めたので、そこで少しどうにか変化があればいいなと期待したり。

 

でも期待するとだめだった時がっかりするから期待しないようにしたり。

 

 

 

でもまあ、多分人生はなるようになっていくから

 

「こうきたか」とその時起きたことを受け入れて対処していくしかないのだと思う。

 

そんなこと言いながら明日には事故に遭って死んでいるかもしれないし(笑)

 

 

あまり先のことを考えすぎず、

目の前のこと目の前のことを楽しんでいこう。

 

 

まあこうやって悩むのも人間の人生らしいよね。

 

 

 

それにしたって

 

 

出産のドキュメンタリー…

昔よくやってたけど、あれで出生率下がってない!?ってくらいトラウマもんだよね!!

 

 

あと、ふと今『自分が男だったら?』で考えたけど

 

男だったら普通に赤ちゃん欲しいって思っちゃうね。

なんのリスクもないんだもん!笑

貰えるもんは貰っとく??くらいの気軽さだよね。

男側にも何かしらあればいいのにー!!!!

 

こういうとこ、対等さを求める性格が出てしまう。

 

 

こんなに妊娠出産について恐怖感や嫌悪感を感じている人はどのくらいいるのだろうか。

 

母親に話したら「大丈夫だよー」って笑い飛ばされそうだ。

 

 

 

 

 

 

『優しい』と言われることが嫌いだ。

久しぶりのブログなのに、職場の人間関係でとても感情が不安定な時に書いている。

どんよりとした気分になるのを覚悟で読み進めてもらえればと思う(笑)

 

 

タイトルの通り、「優しい」と言われることがあまり好きではない。

もちろん、最初のころは素直に誉め言葉として受け取っていた。

仕事を始めて、

そのうち違うニュアンスが含まれていることに気づき始めた。

 

もちろん純粋な意味で「優しい」と言ってくれる人もいる。

ただ、そうでない意味を感じ取ってから、

純粋な「優しい」すら素直に受け取るのを拒否してしまうようになったのだ。

 

例えば後輩と一緒にする仕事がうまくいかない時。

例えば誰かからの頼まれごとを引き受けて頑張っているとき。

例えば人から理不尽なことを言われ腹が立ったと、愚痴を言った時。

 

「○○さんは優しいからねー(笑)」

「優しすぎるんだよ」

「優しいからもっと厳しく怒ったほうがいいよ」

 

 

 

……え???優しいって誉め言葉じゃないの???

 

優しいって悪いの?

優しくあってはいけないの?

 

っていうか私優しいか?

 

心の中、結構罵倒してるけど(笑)

 

こういう風に言ってくる人は

どういう気持ちで言っているんだろう

 

優しいとこがいいところだけど苦労するでしょ?

っていうねぎらい?心配?

 

優しくないと普段自覚している自分を肯定するため?

 

優しいとだめなの?

 

 

まあ、苦労するからほどよく言いたいことは言って、

怒りたいところはしっかり怒って主張し、

優しいだけだと舐められるよ、ってことだろうなあ。

実際「優しい」というレッテルを貼られているので

人によっては見下してきたり意見を強く押し付けてくる人もいる。

仕事を引き受ける前提で頼んできたり、時間泥棒をしたり。

だからある程度優しさと意思表明は切り分けたほうがいいのだとは思う。

 

 

そう、そんなことを考えてしまうから。

 

だから『優しい』と言われることが嫌いだ。

 

 

 

 

 

同様の言葉で「真面目」もあると思う。

というか、ほめる意味で「真面目」を相手に言うことより、

揶揄・皮肉としてのほうが多いのでは?と思ってしまう。

そんな言葉、「真面目」。

 

 

真面目だからねえ

真面目すぎる

真面目そうだよね

真面目なのはいいんだけど

真面目だね(笑)

 

打っているうちにゲシュタルト崩壊してきた(笑)

 

 

なんかこの言葉も

 

要領悪くて時間がかかっている時、残業している時

人によって価値観が違うのをわかっているので、それを確認してから仕事を進めたいとき

あいまいな部分をはっきりさせたいとき

相手への敬意を払って(という建前で、気分を害されるのが嫌だから)挨拶や気遣いをしっかりしたとき

 

に言われると本当に腹が立ってしまう。

 

真面目で悪いんか??????????

と。

 

もちろんこれも

もっと肩の力抜いてやろうぜ的なことなんだと思うんだけど、

そこはかとなく馬鹿にされている気分や

見下されている気分になる。

 

 

 

ここまで打っていて思った。

人には言わないようにしよう。

 

それか、いい意味で伝えたいなら

 

『~ところが好き』と伝える。

 

真面目なところ好きだよ

優しいところ好きだよ

そんなところに救われているよ

そんなところがあなたのいいところだよ

 

 

逆に言えば、

 

『~なところが好きだよ』と変換できない時は

相手を否定・批判している時。

 

変換できないなら言わない。

 

 

言われることは嫌いだが、

 

 

私は自分の優しいところは好きだし、

失いたいと思わない。

 

真面目…とはあまり思わないけど、

真剣に考えるところは嫌いじゃない(考えすぎるところは困るけど)。

 

 

優しい人は優しい人が好きになるし、お互いわかっているから安心して話ができる。

優しいから出会えた人もいる。

 

 

 

だから優しいと思われているならそうでありたい。

 

 

優しい自分を誇りに思いたい。

 

 

 

いつか嫌味で言われても、

 

『そうなんですよ、優しい自分大好きですね!!!!』と胸を張って言えるようになりたいな。

 

 

 

……ちょっと難しいか(笑)

 

 

もしも私のように『優しい』と言われる自分が嫌いな方がいたら。

 

 

私は好きですよ、と言いたい。

 

優しくないより

優しいほうがいいよ

誰だってさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

30代後半、ADHDかもと悩む日々①

 久しぶりのブログ。

 

30代頃から、仕事や私生活でのあまりの凡ミスぶりに、

ふとADHDなのではと思うようになった。

 

徐々に後輩ができ、10年以上も経験が違う後輩がしっかりしていたり、

私がミスをして迷惑をかけてしまうこともあり、

悔しい、情けない気持ちと同時に

「ここで働いていていいのか?」

「迷惑をかけているのでは?」

「いつか取り返しのつかないミスをする前に辞めるべきでは」と思うようになった。

 

もちろんできていることもあるのだと思う。

得意分野では「すごい」と言ってもらえることもある。

 

ただ、私の思考回路は

ほめられたことを素直に受け取れず、

「社交辞令だろう」

「ここで調子に乗ったらよくない」

「本心かはわからない」

と受けとめてしまうのだ。

 

そして、ささいなことでもミスがあると

LV100のミスだと思ってしまう。

 

ああこれが自己肯定感の低さなのだなと思うけど、

だからと言ってすぐに考え方を変えられるわけでもなく。

 

また、職場で「誰々さんまたこんなミスしたんだよ」「ありえないよね」「やめたほうがいいよね」「向いてないんだと思う」「ADHDだと思うよあの人」と同僚から愚痴を聞いたことがあった(今はその人に極力仕事以外話かけないようにしている)。

 

そうなると、ミスをする度にその言葉が頭に響く。

 

私もそんな風に言われているのではないか。

 

 

とにかくミスをするのが怖い。

誰かに陰で評価されているのが怖い。

本当はやめたほうがいいとみんなが思っているのでは?

他人に迷惑をかけているのに気づいていないのでは?

と思って怖い。

 

でもそんなことを考えているとそちらに気が向いてしまって

もちろんミスをする。

ミスに落ち込んでまたミスをする。

悪循環だ。

 

そんなこんなで

最近仕事の日はとにかく『怖さ』『緊張』『不安』を抱えて出勤するようになってしまった。

 

だからと言って誰が悪いと思っていない。

 

私のとらえ方次第なのだ。

 

ADHDかどうかは正直大事ではない。

 

そうだとしても、そうじゃないとしても

ゆるぎない『自己肯定』が私には必要なのだと思う。

(この場合、。自己肯定は『なんでも自分を正しい、できていると思うこと』『いいところを見つけてほめること』ではなく、『できない自分もありのままに肯定すること』だと思う)

 

 

ただ、なかなか染みついた思考はすぐに矯正することができるものではない。

 

ストレスがすぐおなかに来るタイプなので、

胃痛で寝そべって動けなくなったり、

トイレにこもったり、

そのせいで食欲もなくなった時、

 

さすがにまずいのかなと危機感を感じて

動くことにした。

(ちなみに食欲は腹痛があった時だけで、基本ちゃんとあるので、そこは今のところ安心)

誰かにこのしんどさを理解してほしい

共感してほしい

解決したい

自分をもっと理解したい

生きやすい考え方をみにつけたい

 

笑顔で働きたい

心から笑いたい

 

 

そう思って調べたところ、

発達障害(ADHD・ASD)の交流会を言うものを見つけた。

無料!精神科・メンクリよりも敷居が低い!

そう思い、また開催日もすぐだったため、

『これは行けってことに違いない!』

とためらうことなく申し込んだ(こういうところはいい衝動性だなと思う)。

 

これで楽になれる…

前を向ける…と思うと、少し気が楽になったのか、

開催日まで若干だが心穏やかに過ごした。

 

 

→次回  交流会にて…気持ちは楽になったのか?

※続けて書こうかという意思に反してまた腹痛が襲ってきたので、ちまちま書いていくことにする。

ADHD、こういうの過集中で何時間も時を忘れて一気に仕上げてしまいがちらしいので、

こうやって仕事を分割するのはいいらしい(どこかのネット情報だけど)

 

続き、また気が向いたら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自認ADHD×HSPの大敵、年度末。

 3月がやってきた。

3月と言えば年度末。特に変わりがない仕事もあれば、年末のほうが忙しいという仕事もあるだろう。

 

私は保育士として十数年働いているのだが、保育士は年末よりも格段にこの年度末が忙しい。

 

現クラスの書類や移動に向けた保育室の片づけ、返却する製作物のまとめ、引継ぎ事項の確認、

それに加えて新年度の書類作成、保育室の展示物や表示などの準備、新担任との流れの打ち合わせ、新入園児の面談、保護者から提出された書類の確認、新しく受け持つ子どもの情報共有などなど。

 

どの仕事でもそうした年度の変わり目の仕事はたくさんあると思うが、

保育士がブラックと言われる由来としては

『勤務時間中に仕事ができない』

という、一見すると何言ってるんだ?という特殊な状況にある。

 

勤務時間は基本的に子どもの保育をする必要があるので、

書類作成や製作などの作業はできないのだ。

というか保育室を離れることもできない。

そして働いている保護者の子どもを保育するということは、

『新年度準備のため休園します』ということができないのだ。

なので基本的に勤務時間後あるいは休日出勤、または持ち帰っての作業となるのだ。

なんともブラックである。

ただ、持ち帰り仕事は3月に関わらず、基本年中行っているので

勤めれば勤めるほどそれが当たり前と感じてしまう保育士も多く、そんな状態もなかなか怖い。

※注※園によっては独自に工夫し勤務時間内に作業時間を作っているところもあると思います

 

また、面白いのが、4/1に進級をするというところ。

当たり前のように感じるが、例えば3/31が水曜日だとしたら、普通に保育園に通って帰宅し、次の日4/1に登園した時にはがらりと担任と生活スタイルが変わる。幼稚園や小学校のように春休みと言うのはないので、なんともシームレス?な進級である(笑)

4歳くらいになると分かってくるが、1・2歳児は特に状況を受けとめきれなかったりして4月は戦争である。帰宅後に「ああ…今日エイプリルフールだったっけ…」とXの企業ネタポストを見て疲れ切った頭で思うのだ。

 

保育園に勤め始めたころは衝撃を受けた年度末~年度初めの保育園事情である。

 

そんな保育園事情を知ってもらったうえで、

 

自認ADHD×HSPの私がとにかくしんどく、

情緒不安定になっていく3月について話そう。

というか話させてほしい。

 

症状①

頭が回らない!!!!!情報の処理が追い付かない!!!!!

 

とにかく新しい情報・更新される情報・確認事項・タスクが多い年度末。

基本頭の中で複数のことをキープしておくのが苦手なので、

頭の中が本当に汚部屋状態になっていく。

 

症状②

タスク管理できない!!!!!!!

 

①からの派生だが、優先順位がつけられない性格が、大量のタスクでさらに悪化。

また、どのくらいで終わるのペース配分ができないので、頭がパニックになる。

結局あちこちうろうろして何も片付かなかったり、後でいいことに先に手を出してしまって、締め切り直前に焦ったりする。

 

症状③

なくなっていく自信!!!そしてつながるミス!!!!負の連鎖!!!!

 

①と②が完全にADHD由来だとすると、これは若干HSP要素もある。

いっぱいいっぱいになることで、頭が働かなくなり、結果AかBを選ぶときに、明らかにAが良い状況でもなぜかBを選んでしまう。

そして周りから「Aでしょ」と言われていろいろ考え始め、自信を喪失。

このいろいろ考え始め…のところがとにかくめんどくさいところ。

なんでこうなんだ…どういう意味で言ったんだろう…じゃあどうすればいいんだ…

と考えだすので、口数も減り、周りとのコミュニケーションがおろそかになる。

普段は和を大切にしてとにかく楽しい雰囲気を!!と努力しているのに、

そんな余裕もない自分のせいで周りの空気悪くなってない?とよけいなことをさらに考えだし、落ち込む。そしてそんなことを考えているのでミスと謎の勘違い、焦ってさらに忘れ物や遅刻、よけいな発言の連発…

なんだかみんなから呆れられているように感じる

私だけ置いて行かれている

なんでみんな普通にこなせるの?

 

そしていっぱいいっぱいになった私、

何度3月の帰り道で涙を流したことか(笑)

 

 

 

数年前に「あー私はきっとADHDなんだな」と自認してからは、

ダメな自分に落ち込むだけじゃなく、

じゃあどうしよう?

ADHDならこういう特性あるよね、じゃあこういう対策しよう

 

と考えらえれるようになってきた。

 

そうはいってもやっぱり

些細なことで動揺しやすいし

不安定な3月なので、

プライドもズタズタ、

ネガティブに振り切りがちなんだけど。

 

この仕事をしていく限りこの地獄の年度末との付き合いかたを習得するしかない。

 

時々話を聞いてくれる同僚に弱音を吐きながら。

 

美味しいものを食べて元気出しながら。

 

乗り切ろう。

 

「なんでなんで?」な私が「なんで?」と思ったこととその結論

先日のこと。

 

同僚4人で話していた時に、一人が文房具のペンを買うのが好き、という話を始めた。

さまざまなペンを見て、「かわいい!」「これ持ってる!」などと話しが弾んでいたのだが、

私が「こういうペンって、機能性重視して買うの?それともかわいい!って思って買うの?」と尋ねたところ、ペン好きの同僚ではない同僚が「そんなの別にいいじゃん!いいと思って買うんだから!!めんどくさいなあ!」とムッとした様子で割り込んできた。

 

私は一瞬「え?怒られた?なんで怒っているの?」と思考が停止してしまう。

それから、その言葉を咀嚼して、ムッとされた理由を考えた。

 

多分、いや、

否定的に取られたのだろう。

 

私はその人に親しみを持つと、

その人の行動原理というか、考え方を知りたくなる。

家族構成とか、年齢とか、どこの高校出身とか、

そういう情報よりも、

どんなことに腹を立て、

判断は早いのか?慎重なのか?

自分に合わない人にはどう接するのか?

ネガティブか?前向きか?

 

そんな『その人の心理』を深堀したくなる。

 

ちなみに私も文房具が好きで、

私の場合かわいい!と思っても金額が高いとためらったり、

でも機能も自分に合ったものなら買ってしまったり、

いろいろ使ってみて使い心地を試すのが好きだったり…

 

つまり、好きなものに関して、いやそうでないものでも

「なんとなく」「よかったから」といった感覚で選ばないのだ。

それを選ぶまでに至った考えや背景と言ったストーリーを知りたい。

そこからその人の考え方や価値観に触れたい。

ただ、そういう気持ちでの質問だったのだが、

聞く人によっては否定的にとらえてしまう質問だったようだ。

 

もちろんこの出来事についても「なんで?」と思ったので帰宅後にいろいろ調べてみた。

 

いろいろ見た結果、ざっくりまとめると

 

論理的思考の人は何事においても理由や背景を知りたがる。否定的な意図はないが、「どうして?」「なんで?」は相手に答えをゆだねることもあり、聞かれた側はストレスとなることもあるとのこと。

なるほどなー。

 

コミュニケーションの一環のつもりでも、あまり質問攻めにされるのは心地いいものではないのかもしれない。

 

まして女性は『共感』が欲しいもの(私も女性だけど)。「なんで?」よりも、たった一言の「いいね!」で十分だったのかもしれない。

(でもそんな薄っぺらなやりとり楽しいか?自分だったらいろいろストーリーを聞かれたいけどなと思う…のは少数派なのか…(笑)

 

また、これは調べたことというより私が感じたことなのだが、

「なんでそうしたの?」は人によっては批判されているように感じるのかもしれない。

 

たとえば自分が夕飯にカレーを作った時。

「なんで今日カレーなの?」

と家族に何気なく聞かれて、どう感じるか?

 

聞いた側は食事中のささやかな会話のきっかっけのつもりだったかもしれないが、感じ方は人それぞれ。

 

聞いてよ!と言わんばかりに

「スーパー行ったらジャガイモとニンジンの詰め放題をやっていてね!」とカレーに至るまでのストーリーを得意げに話す人もいれば、

 

「え?何?カレー嫌だった?」

と眉をひそめる人もいる。

 

おそらく「別にいいじゃん」と口をはさんできた同僚は「カレー嫌だった?」と同じ「否定」を「なんで?」に感じ取ったのだと思う。

 

ちなみにその場合

「いや、別に嫌なんて言ってないけど…」

「じゃあ何!?別にいいじゃんカレーにしたかったんだから!」

なんてやりとりが続くと思われる。

 

えーなんで怒ってんの?というかこっちが悪者にされてんの?と毎回もやもやが残る「なんで」サイド。だから不用意に「なんで?」は使わないほうがいいんだろうな。

 

 

ただ、この「なんで?」を投げかけた後どっちに転がるのか?

 

私はこのことにも「なんで、『なんで』を言って喜ばれるときと、怒られるときがあるのか?」を疑問を持った。

 

そして思い当たる。

 

 

それは、その行為に後ろめたさがあるか?ないか?ではないか?

 

例えば文房具のペンの件。

 

選ぶ基準を聞かれたら、得意げに話してもいいはず。

だって自分の好きなこと。

 

実はそのムッとした同僚もペン集めをしていた。

集める過程で同僚の中では『お金をつぎ込んでもいいれっきとした趣味』ではなく『また衝動買いしてしまった…無駄づかいだ』という思いを抱えているのではないか?

 

カレーの例で言えば、

詰め放題に出会った、得をした→話したい!聞いてほしい!

となるとむしろ「なんで?」も嬉しいだろう。

 

例えばそれが「カレーは簡単だし、副菜を作らなくてもいい」「余っている野菜を処分したい」という考えがあり、それに後ろめたさを感じていたとしたら、もちろん「なんで」なんて聞かれたくないし、聞かれたときには「なんか探られている!?」と警戒するだろう。また、「簡単だからカレーにしたって思われてるんだ」と思い込んでしまうと、相手が言っていないにもかかわらず「別にいいでしょ!?悪い!?」と先制攻撃をとってしまう。

 

つまり、その人の行動について「なんでそうしたの?」と背景や過程を聞いたとき(もちろん純粋な知りたい気持ちで)、

 

喜んで答える→背景・過程・自分の考え・選択に自信があり、聞いてほしい

反発・怒る→    〃   に後ろめたさや恥ずかしさがあり、触れてほしくない

 

というだけなのかもしれない。

 

こうして考えてみると意外とわかりやすいなと思う。

そして、じゃあ別に聞いてもいいのかなと自分の中で腑に落ちた。

 

ただこの「なんで」は、あくまでその人のことを知りたいときに聞いていいこと。

知識に関してはまず自分で調べたり考察するのが大事だと思う。

雑学王のような人なら喜んで答えてくれるだろうが、大抵の人は辞書・メモ帳・AI代わりにされると距離を置きたくなるようだ。

今回ネットで調べていて、この『知識に対しての「なんで?」を連発する人への苛立ち』が殆どだったからだ。

  ・すぐに「なんで?」って聞いてくる人、自分で考えろよと思う

  ・考える力がない、覚える気もなくて腹が立つ

  ・聞いてくる割におしえると、へーって言って興味がない

みたいな感じ。

 

覚えておかなくてはいけないことはメモを取り、調べる必要があれば自分で調べてむしろ周りに共有する。わからなければ考えて、それを「こう思うんですけど、どうですか

?」と提示する。

 

いろんな「なんで?」があるが、

使い分けに気をつけて「なんで?」を使っていきたい。

 

あと、頭の中でこうして「なんで?」と考える自分は嫌いでないし、新たな発見があると楽しいので、「なんで?」が沸いたときには押し込めず大事にしていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

買い物で上がる自己肯定感

あなたは自己肯定感、高いだろうか?低いだろうか?

 

私はとても低い。

 

自分の言うことよりも、人の言うことのほうがあっているのでは?と思うし、

物作りは好きだが、『自分が作ったものを誰かにあげる・あるいは自分で使う』なんてことができない。なんならみんなで陶芸体験とか、オリジナルTシャツ作ってみようとか、「絵上手だから似顔絵書いてほしい」とか、できれば逃げたい。

ほめられたとしても、「いやお世辞だろう」「そう言うしかないもんな」「うまく利用されただけでは?」と疑心暗鬼になってしまう自己肯定感の低さだ。

それでいて最近気づいたのは、自己肯定感が低くてもプライドは高いのだ。

自分で自分を卑下しているのに、人から見下されたりするのはすごく腹が立ってしまう(笑)

 

そんなめんどくさい人間なのだが、

最近引っ越して気がついたことがある。

 

10年少し、初任給に見合った(つまり安い)アパートに住んでいたのだが、

さすがに給料も上がったし、もう少しきれいなところに住みたい…

と思ってついに終えた引っ越し。

 

築浅で、設備も充実している。

そこに見合った家具をそろえたいなと、ずっと捨てられずにいた家具なども新たに買いかえた。

今まで使っていなかった掃除用品も買い揃え、観葉植物も購入。

きれいな状態をキープしたいと思い、

掃除やゴミ捨ても以前よりしっかりおこなうようになった。

 

そこでふと気がついたのだ。

 

 

自分…ていねいな暮らししてる…!!!!!

 

もちろん、ドラマのセットのような部屋ではないが、

以前のアパートよりあきらかにていねいな暮らしになっている。

 

それと同時に、少し気持ちが上向きになっているのだ。

 

 

さらに言えば、自分のために、あまりためらわず何かを買うことができるようになった。

 

 

実家の影響もあるだろうが、

何かと古いものも使えるうちは大事にしないと…

よけいなものは買ってはいけない

買うなら安いもの…

作れるなら作る…

という考えが昔から根強くあった私。

 

それが、「いいと思ったから買う」

    「なくてもいいけどあったらより充実しそう」

    「迷ったら買う」

ということが増えてきている。

=浪費、とも見えるのだが、

そうして自分の中で自分に許しを与えることが増えたことで、

自分を大切に扱えるようになってきたのかもしれない。

 

 

といっても、まだまだ小さいころからの性格は変わらず。

 

古くなった下着や毛玉のついた靴下。

へたってきたクッション。

古いけど動く家電。

 

そういうのが家の中にはたくさんある。

 

自己肯定感が低い人は「自分なんて価値がない」と思いがちなところがある。

 

そこを、買い物によってグググっと「価値ある自分」に変えていけないか?

 

新しい服を買う、

欲しいものを買う、

美容や健康を意識する

行きたいところに行く。

 

 

自分にお金を使うことで、

自分で自分を大切にして

自分の価値を上げることができるのかもしれない。

 

 

それを意識しながら

しばらくていねいな暮らしを続けていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

クマの駆除、「かわいそう」と思うのは

 クマ出没のニュースが絶えない中、

ツイッターを開いたら『クマ肉を食べること』について議論されていた。

 

クマ肉を得るために狩っていいか?云々に限らず、

『クマを駆除すること自体、かわいそうだから反対派』

をちらほら見かけ、

それに対し

『じゃあクマ保護派のところにクマを送ろう』

『自分が被害に遭っていないからそう言えるんだ』

『無実のクマがかわいそうだから食べないでというやつらは牛豚鶏魚を食べてないの?』

食物連鎖だから仕方ない』

などなどの反論意見が多数見られる。

 

私もどちらかといえば後者寄りだ。

でもこんなことを言っている人たちも

「蝶はきれいだけど蛾は無理」

「カタツムリはかわいいけどナメクジは気持ち悪い」

タンポポは雑草だから抜くけどコスモスは抜かない」

なんて勝手な価値観で物事を決めているのだと思う。

 

私自身も、

部屋の中で見つけたゲジは容赦なくスプレーでやっつけるのに、

クモはなんとなく殺してはいけないような気がして極力外に逃がしている。

 

ゲジは気持ち悪いし手に負えないから。

クモは気持ち悪いけど、『蜘蛛の糸』がよぎるから。あとなんか『夜の蜘蛛は殺しちゃいけない』みたいな言葉なかったっけ?というあいまいな記憶。

ちなみにカメムシは退治したいけど臭い出されるのが嫌だから極力穏便に逃がすし、

ハチは確実に仕留められるなら手を出すけど、危ないなら自分が逃げる。

危険じゃないハチならそっとしておく。

トンボは捕まえるのが楽しい。

 

虫一つとってもそんなものだ。

『平等』なんて難しいものだ。

人によっては虫は全部退治する、という人もいるかもしれないが、

そうだとしても無害なアリやダンゴムシに手を出すか?と言えばそうでもないと思う。

苦手=退治するというわけでもない。

 

何が言いたいか、というと、

だから『クマを駆除するのはかわいそう』という価値観も認められるべきだということだ。

もちろん『被害が出ているのだから駆除すべき』という意見も。

 

 

ただ、そこでふと思った。

 

私の中にも、なんとなくだが『クマを駆除するのはかわいそう』という感情はあるのだ。

先の文章で『後者寄り』と言ったのは完全に後者の意見に共感もできないからだ。

クマを駆除しなくていいのならしないほうがいい。

仕方ないと思いつつ、かわいそうとも思う。

『駆除反対!!!』とまでは言えないが、

そう言いたい気持ちもわからなくもない。

わからなくもないが、それはなぜだろう。

 

『かわいそうと思うならお前が保護しろ』という意見は極論として、

なんというか

 

『殺してしまっていいのだろうか』

というためらいがあるのだ。

 

そこでふと『罪悪感』という言葉が浮かぶ。

罪悪感を抱くと言えば、

「じゃあいつも食べている牛や豚や鶏にも罪悪感を抱いてるの?」と聞かれそうだが、

その罪悪感ではない。

 

おそらく

『そもそもクマが人里に降りてきた原因は人間』

という罪悪感である。

 

例えばこれが、謎の感染症でクマが狂暴化して人里に降りてきて人を襲う…というのだったら罪悪感は抱かなかっただろう。

 

ただ、これに限ってはそうではない。

 

人間が森林破壊しなければ

クマも人里に降りてくることはなく

人間を襲うことはなかったのだ。

 

もともとあった境界線を壊したのは人間側。

それなのに、それを棚に上げて『クマが人を襲うから駆除する』という

あまりに身勝手な振る舞いに、罪悪感を感じているのではと思う。

『かわいそう』と思う側の心理は、

クマだから、ではなく

人間のせいなのに人間に身勝手に殺されるという状況、にかわいそうと感じているのではないだろうか。

ちなみに『じゃあ牛や豚、鶏、魚は?』とも考えたが、

これはクマと違って人間が境界線を破壊したわけではない。

また、人が育てる、食べる、生きやすい環境を整えるという循環のなかに生き物らが組み込まれている。

 

深く考えれば、魚に関しては海洋汚染問題があるのですこしクマと状況が似ているのでは?とも思う。

 

例えば人間が海を汚して、埋め立てて、

行き場をなくしたクジラが漁をする船の周りにたくさん現れるようになった…

船にぶつかって破損する事故も増え、

これでは漁が危険でままならない、クジラを駆除しよう。

 

そうなった時、『クジラがかわいそう』と声を上げる気持ちもわかる。

もちろん事故によってたくさんの漁師がなくなり、獲れる魚も減り、

魚の値段が上がり…となったら駆除が正義となるかもしれないが、

それでもそもそもクジラにとっての(ひいては海の生き物すべてにとっての)悪は人間側なのだ。

 

互いが生きる場所を守りつつ、恩恵をもらいながらwin winの関係を作っていく。

 

それが自然との共存ではないのだろうか。

 

 

以前ニュースでハンターが「クマを駆除するときに心を痛めないわけではない」といった話をしていた。

山とそこに住む生き物に近いハンターだからこそ、

本来なら共存すべき野生動物との衝突は、本当にやむをえないのだろう。

 

簡単に『かわいそう。殺さないで』とも言えないが、

『人に害を与えるのだからどんどん駆除すべき』とも言えない。

 

 

あくまで人間は地球に住む生物の一つ。

そこをわきまえて、破壊された一線を再生できる方法を考える必要があるのかもしれない。

 

 

 

 

…なんて偉そうなことを言って、結局は何かできるわけでもなく。

どうしようもないから、駆除されていくクマを申し訳ないという気持ちで見守るしかないのだろう。

あるいは自分や周りが被害に遭った時、「かわいそう」から「しかたない」に変わるのかもしれない。

 

 

安定のまとまりのない文章となってしまったところで

おしまい。