あたまの中の引き出し

備忘録のような分析のような日記のような

イジメ自殺のニュースを見て思うこと。

もはや『定期的に』報道されるようになったイジメによる自殺のニュース。

 

ニュースでは必ず学校、担任教師、家庭、教育委員会?)らが責められ、遺書やら将来の夢やら流れ、同級生が悲しんでいる。

焦点は主に、

学校内のイジメになぜ早く気づかなかったのか!

気づくためにどうしたらいいか!

 

だけど、なんだか違うように思う。

 

そもそも『イジメ』なんて、それを語っている解説者のおじさんが子どもの時も、いやむしろそのおじさんのひいじいちゃんの子どもの頃にだってあったはず。そして現在までなくならない。第一大人だって職場内で差別したり悪口を言ったり見下したり距離置いたりしているではないか。『イジメなくそう』は集団の中で生きていく上で無理な話。

 

なにより、まず『イジメ』と、『イジメによる自殺』は別物だと思う。

 

カレーうどんと、カレーうどんによる火傷くらい違う。

 

誰もがカレーうどん

食べて火傷する訳では無い。

 

世界中からカレーうどんをなくすことは出来ないけど(禁止されてもこっそり作って食べることが出来る)、カレーうどんによる火傷は防げるのではないか。

 

でも例えばそれを、

 

大人が『カレーうどんで火傷した子がいるから気をつけなさい!冷まして食べなさい!』

と言ったところで、食べる本人が子どもであれば、

どの程度覚ますのか、どの程度で火傷するのかわからない。

自分で体験するしかない。

 

 

 

カレーうどんの例えが長すぎてよくわからなくなってきたけれど、

 

イジメによる自殺に関して、

いくら周りの大人が干渉したって無駄なんじゃないかと思う。

大人が(例えば保護者や教師)味方につけば、強制的に終わるだろう。でもそれが本当にその子の心の癒しになるのか?大人に守ってもらった子は、周りの友だちからどう思われるのか?守られた本人はずっとそれを背負って生きていくのか?

 

二ユースで話し合うべきは、または研究すべきは、『イジメによる自殺をした子の特徴』だと思う。

 

例えば環境。

 

私自身、あれがどのくらいのレベルのものだったかわからないけれど、小学校でイジメをされた、したことがある。

 

けれど今思えば、救いだったのは、『いくつかの世界』に所属していたことだ。

『学校』

『家庭』

だけでなく、

『習い事3つ』

『近所の友だち』

『いとこたち』

『オタク友だち』

 

それぞれ独立していて、『私』はそれぞれで違った存在で、『役割』があった。もちろんダブっている友だちもいたが、その場では私はその『役割』を受け止めてもらえていた。

いじられキャラ

絵がうまい、

リーダー的存在、

おもしろキャラ、

天然キャラ……

 

 

だからクラスでいじられる存在であっても、それが『私』を100パーセントを占めず、そこまで重く受け止めていなかった気がする(もちろん嫌な気持ちもしたし覚えているが)。

 

今の子は、窮屈ではないだろうか?

独立した『複数の世界』を持てているだろうか?

 

LINEだと自然と『全員』が繋がってしまう。

むしろ繋がらないことが『イジメ』となる。

 

学習塾は同じ学校、クラスの友だちが大勢いるだろう。自分の役割は変えられない。

 

イジメが原因で自殺した子どもたちは、どういう環境で、どういう状況で自殺に至ったのか。

 

本当に今後防いでいきたいのであれば、自殺が起こった学校や職員をピンポイントで責めるのではなく、共通した背景を探って改善すべきではと思う。

 

どうすれば、子どもたちが『集団生活に必ず発生する闇』を抱えすぎず、うまく解消して生きていけるのか。

親に教えるのはそういう事じゃないのかな。

 

 

責任が誰にあるか追求し続けるのではなく、子どもたちをどういう環境で育ててあげればいいか考えて欲しい。

 

 

という最近のニュースに悶々としつつ私が勝手に思ったこと。

 

言うは易し。

 

おやすみなさい。