男子には縁遠い女子集団特有のドロドロとした空気について
女子集団のドロドロとした空気が嫌いだ。
小学生、いや、下手したら年長くらいから出くわすあの空気。
職場も女子社会なのでかれこれ四半世紀近く付き合っているあの空気。
男子にはわからないだろう。それがずっと羨ましい。
逆に女子のみなさんは経験したことない!!とは言わせない。
誰かに聞いた、
男子は
それ好き!
→俺ら友達!(´・ω・`) 人(´・ω・`)
俺も好き!
でも女子は
それ嫌い!
→私ら友達!(´・ω・`) 人(´・ω・`)
私も嫌い!
がすごくわかりやすい。
女子(女性もだがあえて女子で)は『好きなもの』を共有できないのです。
集団の中で『嫌いなもの(人)』を共有することで、
「私たち理解者!」
となり、逆に互いに裏切らないよう牽制をかけている。
「あなただから言うけど……」
「ここだけの話だけど……」
「みんなには言わないでね……」
のあとに続く話はつまるところ『人質(言質かな?)』で、バラされた時のリスクは高いけども、『その分あなたを信頼してるのよ』って証。もちろんその裏には『裏切ったらこっちも裏切るわよ』というのもありますが。……怖い(゚ロ゚ノ)ノ
ではなぜこれが『悪口』というネガティブなものでなくてはならないのか。
『人質』ってことを考えたら確かに『悪口』じゃないと成り立ちませんが……。
女子は男子のように『○○いいよな!』『おう!』みたいな会話はしないのか(ちょっと極端な例ですが↑)
風呂で髪を洗いながら考えてみました。
悪口以外だとすると……
①その場にいない友達の悪口ならぬ善口
例「Aちゃんのお弁当、キャラ弁でね、すごくかわいかったんだよ!」
「Aちゃんほんと美人だよね」
→相手が自分よりAちゃんと親しいのならともかく、これだと相手には何のメリットもなく、下手したら「私のことディスってんの?」と誤解されてしまう。さらに相手がAちゃんを快く思ってない場合は、最悪「Aちゃん側なのねーじゃあ敵だわお前」と思われることもある(顔には出さない)
②共通の『好きなもの』について話す
例「俳優の○○ってかっこいいよねードラマ見てる?」
「このブランドいいよね!」
「このアプリはまっててさ……」
→最初は楽しく感じられて、でもだんだん窮屈に感じてくるこの話。
相手が自分より詳しかったり、たくさん持っていたり、上手だったり、熱があったりするとその『落差』にイライラしてくる。同じペースではまって楽しめるならベストだけど、大抵差が大きい。
そうなるとむしろ相手が嫌い、そして嫌いな相手が好きなものも嫌いになり、あんなにはまっていたものが嘘のように冷めてしまう。
だからより『人と被らないもの』『レア物』『1点物』『マイナー物』を好きなる人は「私だけが好きでいたい!」と思っていて独占欲が強い傾向があるのではと思う(私もだが……^^;)
③相手を褒める
「○○ちゃん(相手)ってなんでもできてすごいよね」
「○○ちゃんの歌声すきだなー」
これはなんというか、純粋であればいいけれど、下心ある『褒め』には女子は敏感なので繰り返しすぎたり、ポイント絞らず褒めて下心がバレると一気に嫌われてしまうので本当に思ってること以外言わない方が吉だと思われる……。
あと褒め言葉は第三者から伝わった方が嬉しさも好感度も信憑性も増すので、
文句は直接!
褒め言葉は間接的に!!
を推奨したい。
結論としては女子が一番絆を深めるのはやっぱり『悪口』あるいは『風評』『噂(よくないほうの)』なんでしょうね……
-×-が+になるように……というと聞こえはいいけども。
相手を落として落として男性に選んでもらう……という種保存的な関係もあるのかしら。(壮大な話になりそうなので掘らないけれど)
女子として生まれたからにはうまく付き合っていくしかないのか……ほんと男子の関係が羨ましい。
男子のみなさんにはそんな女子の水面下の冷戦があることを知っていて欲しい……ような欲しくないような。汚いですよ!女子って(;´∀`)
みんなが楽しく、お互いのいいところを見つけて、言いたいこと言えて、逆に受け止められて、譲り合って、気遣いあって、でも縛られなくて自由で、人の幸せを幸せと感じられて(ほんと!女子はここも欠けてますよね……)、前向きに向き合って過ごせたら幸せなんだけどなぁ……そんな女子集団に
私はなりたい。。
したきりすずめ
「どうでもいいわww」っていう話をひたすら考察するのが好きなんですが、この間『したきりすずめ』の読み聞かせを聞いた時のこと。
※簡単なあらすじ
おじいさんが助けた雀が恩返しに雀の宿でもてなし、お土産に大小どちらかのツヅラをあげると言われ、小さいのをもらったおじいさんが帰ってツヅラを開けると金銀小判。しかし真似してよくばり婆さんは大きいツヅラを奪ってきて化け物や汚物が出てくるという話。
読み聞かせていた方いわく、
おじいさんはどっちを選んでも(優しいので)大判小判が出てきた。反対におばあさんはどっちを選んでも化け物が出てきてた。
それを聞いて解釈の違いになるほどー!と感心。
個人的には、
もともと大→化け物
小→大判小判
だと思ってました。
優しい遠慮深い人なら小さい方を選ぶに違いない。
宝目当ての欲張りな人間なら、大きい方を選ぶに違いない。
そんな、『最後の審判』だったのでは。
という考えも面白くはないでしょうか。
ちょっとひねくれてるかな。
ちなみに自分だったら……大きいほうかなー笑
『返信不要。』
『返信不要』って言葉をメールで使ったことはありますか。
一時期、メールでのやりとりの
「~~じゃあ楽しみにしてるね!ありがとう!」
「うん!○○持ってくねー!」
「○○!やったー!ありがとう!じゃあ明日!」
「はーい!」
……みたいな、お互い終わりたいのに終われず、ただ短文を送り合うメールが鬱陶しいことがあって、+相手にも気使わせてるなーと思って
『夜遅いのにすいません。特に何もなければ返信はしなくても大丈夫です』
と送ってたことがありました。
ちなみに今のは先輩相手で、
友人相手なら『返信不要~』『返事いらないよー』と。
……が、ふと最近友人と話していたら『後輩からの返信不要ってホント腹立つよね!!』との発言が。
まじか!?
私としては気を使ってたつもりだったんだけど……
過去にいた友人でやたらメールを早く終わらそうとする人がいて(一往復で終わる。必ず『バイバイ(´∀`*)ノシ』とつけてくる)、私自身も用件主義なので、返信不要って気が楽だわ!!くらいに思ってたんだけど!!
そうか!!失礼に感じる人もいるのか!?と目からウロコ。
彼女曰く、「お前からの意見なんてイラネーよ」的な気がする、
返信するか決めるのはこちらなのに一方的に切られて、上から目線に思える。
返信したいことあってもしづらい。とのこと。
た……確かに言われてみれば(; ・`д・´)
ひゃーやべーわ、結構使ってたわ……
ちなみに職場で先輩からも最近『返信不要』が来るようになったんだけど(流行ってんのかな?)、それに対しても意見真っ二つ。
『それは建前であり、そう言われても一言「わかりました。ありがとうございます!」とでも返すべき!』と主張する彼女と、
『いや、本当にそういうのめんどい人(私のような)が本気で返信不要って書いてるんなら送ったら鬱陶しがられる(私がそう)。しかも先輩の指示無視って……』と言う私。
ふわー!めんどくさいやつだこれー!!!
正直建前で『返信不要』って使ったけど実は「それでも返すの当然でしょ」「返さないなんて失礼」「意図を汲み取れ」っていう先輩はそもそも『返信不要』なんてつけんなって話ですよ。
それで「この後輩は返してきたけどこいつはバカ正直に返してこない!失礼!」なんて思ってたらほんととんでもないですよね。なんのふるい掛けなのよっていう。
でも彼女の話を聞いてから『うーむ、返した方がいいのか……』と返信するようになった私。。
みんな返してるのに返さないでいて何か言われんのも嫌だしね……
でも私的には『返信不要』って書いたのに返されるとまたこっちも返さなきゃならないし、さすがに2回『返信不要』なんて送ったら嫌悪感丸出しだし……『返信不要』って言ってんだから返すなよ!!!くらいの気持ちなんですが。
いろんな感じ方の人がいるからなぁ……
そう考えるとあのめんどくさいやりとりが!めんどくさいけどちゃんと後腐れなく終われていいのかなと思ったり。
まあ今はLINEがあるからそこまで面倒ではないのかな??
返信不要≒既読機能みたいな感じなんだろうね……
『返信不要』
面倒ごとを避けるために極力使わないようにしようと思う( ̄▽ ̄)
時は流れている
半月くらい前のことになりますが、
祖母が亡くなりました。
いわゆる私は内孫で、姉妹2人厳しく優しく可愛がられて育てられました。
正直躾は両親より祖母にされたように思います。
背筋を伸ばせ、
茶碗を持って食べろ、
口を閉じて咀嚼しろ、
ものを見るとき目を近づけすぎるな、
靴は揃えて置け、
髪は結え、
足音立てるな、
ドアは静かに閉めろ、
ものを跨ぐな、
当時は『お前のために言ってる』という言葉にホントやかましいなぁ、くらいにしか思っていなかったのですが、
実家を離れ、社会人になった時、
本当に感謝の気持ちしかなかったです。
あぁ、本当に私のためだったんだ……という気持ち。
それからはたまに実家に戻って聞く祖母の小言がすごくあたたかく感じられました。
ちゃんと感謝の気持ちを伝えられないまま、あんなに元気だった祖母が、
100歳まで普通に畑仕事してるんだろうと思った祖母が、
あっというまに体調を崩し、入院。
入退院を繰り返し、顔も麻痺して笑顔も見られなくなり、入院もさせてもらえなくなり、週末会いにいかないと、と思ったその前の日に冷たくなりました。
体調を崩してから何回も寝る前に祖母のことを考え、いなくなることをイメージして泣いていたからか、正直本当に死んでしまった祖母を前にしても『これもイメージの延長では』としか思えなくてとにかく現実味がなかったです。葬式もろもろ終えても、未だに実感が薄い。
死ぬ間際の弱りきった祖母を見ていないから、あまりに元気な姿のイメージが強いから。
30年も生きていない私に、実質一緒に暮らしたのは18年だというのに、祖母から与えてもらったものはあふれるほどたくさんで。私はなにか祖母にお返しできただろうか??
愛情溢れる祖母の言葉に悪態ばかりつく、生意気な孫でしかなかったんじゃないか。
死について考える。
祖母は80すぎまで生きた。
長生きなほうだと思う。
同級生が、小中高大学と亡くなっているのを見てきた。
30、40でだって死ぬ。
芸能人だって、
金持ちだって、
死ぬ時は死ぬ。
親より先に死ぬこともある。
生まれる前に死ぬこともある。
両親は幸いにも健在だ。
それでもいつ死ぬかはわからない。
当然のように80まで生きると思ってはいけない
80まで生きるとしたって、あと10数年しか一緒にいれないのか??
自分は、高校くらいから中身が何も変わっていないように思うけれど、当然時は過ぎていて、それだけ周りも死に近づいている。
スクラップされるためにベルトコンベアで運ばれるゴミのように。
いつ死ぬかわからない。
明日死ぬかもしれない。
こんな文章打っているのがフラグかもしれない。
死について考えるとキリがなく恐ろしいけれど、
とにかく死に向かっていく自分と大切な人のために、少しでも時間をかけて一緒に過ごしたいと思った。
どちらかが死んだ時、思い出せる思い出が少しでも多くあるために。
時間はどんどん過ぎていく。
いくら気づかないふりをしていても、
終わりに向かって進んでいる。
それはプレゼントなのか?
プレゼントって大なり小なりあげたりもらったりしますよね。
誕生日に限らず、バレンタインやらクリスマスやら御中元お歳暮、仕事手伝ってくれたお礼、記念日などなど。
そういうのが頻繁にある職場なので、私もよくもらったりあげたりしていました。
もらうのはとにかく何でも嬉しい。そのひとの好意込みだから。物というより好意が嬉しい。
あげるのは少し難しい。好みがはっきりわかってる人ならいいんだけど(このブランド、キャラクターが好きなど)、わからない上に地雷があるほど難しい。毎回必要以上に頭を悩ませ時間をかけてしまう。
それでもそうしたやりとりってコミュニケーションとしてすごく嬉しいなー楽しいなーと思っていたのですが。
最近
なんというか
重荷に感じることがしばしば。
まず、もらったら返さなくてはならない!という焦り。焦り?責任感?なんといえばいいのか
誕生日プレゼントって、1度あげたりもらったりすると、その人と繋がっている間ずっとやり取りが続きますよね。うっかり忘れてた時には大変。人によっては覚えていて『あれ、私あげたのに』と表面には出さず(これが怖い)気にしてたりして。バレンタインもしかり。気にしない人は忘れてるし!そもそも「あげたいからあげただけ」タイプの人もいるんだけども、見分けはつきづらい。
私自身あまり記憶力がない……というかその場のノリでいいものに出会ったらあげる派なので、若干面倒になってきた最近。でもお返しせず嫌われるのも怖いので返し続け、相手によってはエンドレスプレゼント交換になってしまったり……。
それから最近思うのは、『いらないから』と物をくれる人。加えていうなら『〇〇さんこれ好きでしょ?私もらったけどいらないからあげるね』ってパターン。
いや、いやいやいや。
そう言われたら紙切れ1枚でも受け取るしかないよね……!
でも『ああああああいいんですか!?』
って時と、もちろん
『え……いや、私もさすがにこれはいらないんだけど……』
って時がありますよ。
でも好意だってのはわかってるし、もらう時はもらってるし無下にできず……そして捨てられず部屋にたまっていくものたち……
難しい……
『自分がいらないものをあげる』って、どうなんだろうね。
人にとっては確かに『私はそれ欲しい!!』って人もいるだろうし(捨てる神あれば拾う神ありだっけ?違うかな)。
知り合いの幼稚園では、裕福な家庭の保護者がある時ドッサリゲーセンの景品のぬいぐるみやら音のなるヒーロー物のおもちゃやらを『よかったらどうぞ』って寄付したらしい。寄付されたものの、ぬいぐるみはデカくて数が多いわ、おもちゃは園で遊べるようなものじゃないわ(しかももちろん前の世代のヒーロー)、結局殆どを業者に処分してもらったらしい。
そりゃあその親からしてみれば、金に任せて好き放題手に入れた、けどもう飽きていらなくなってしまったモノを、『寄付』して満足だろうね。ムダ遣い、もったいないという罪悪感を、『いいことしてあげた!』という……えーと言葉が出ないけど、とりあえず自己満足だよね。罪悪感を寄付って形でごまかしてるんだよ。
まあそれと『〇〇さんこれ好きでしょ?』はちょっと違うと思うけど。
なんにしろ、プレゼントって難しい。
あと本当に嬉しいのって、
何をもらったか
どれだけもらったか
より、
誰にもらったか
が重要だと思う。
めったにものをくれるような(わざわざ買って)、しかも誕生日とか覚えてないような幼なじみが、学校の帰りに何の脈絡もなくくれた誕生日プレゼントの手作りクッキーとか。いまだに感動を覚えてるし、あれに勝る手作りクッキーに出会ったことがない。……何回言ってももう作ってくれないけど(笑)
そんな感じ(締め方がわからない……いつになったら文章力つくのかしら)
似顔絵を描く勇気、描かれる勇気
仕事なんかに出来るレペルじゃなく、頼まれて描いてみた程度に何回か似顔絵を描いたことがある。
そこで思ったのは、
似ている≠可愛い ではないということ。
描いてと頼む側は「可愛く自分を描いてくれること」を少なからず期待している。
でもいざ似顔絵を描く、似せて描くためには、そのひとの個性を大げさに誇張して描く必要がある。
その個性はもちろんいいものばかりではない。
例えば広い額、一重まぶた、大きな鼻、目尻のシワ、しゃくれた顎、エラの張り……
「似せる」ためにはその人が指摘して欲しくないところも絵にしなくてはならない。
しかし(特に女性は)それを絵にすると「どうせあたし〇〇だもんね」やら「そこうまく誤魔化してくれればいいのに!!」となり、喜んでくれるどころか気まずい空気になる。
しかしすべての個性をなくしいいところばかり描くとみんな同じような顔になり「なんか似てないー」となるのだ。
逆に個性のない美人は描きづらかったりする。
ホクロやメガネ、個性的な髪型はそれだけで似てるように思うから楽。
描くのが難しい、というよりは相手の個性との駆け引きがなんとも難しい。それが似顔絵のように思う。
これがまだ商売として、ならわかる。
しかし相手が上司やら友達だとよけい気が引ける。
描いて!と頼む方はそれなりの覚悟をしてほしい(自分の嫌なところを受け止められるか否か)
でもそれ以上に、
嫌なところを描きつつそれが気にならないくらい元気の出るような可愛いそっくりな似顔絵を描けるようにもなりたいと思う。
小心者なので相手のウィークポイントを堂々とかけるまでに時間がかかりそうだけど。
おしまい。
フィギュアスケート
落としたスマホは3日後くらいに見つかりました。
無傷だけどその3日間お前は何をされてたんだ……と思うとこの現代社会、恐ろしいですね。
油断大敵。
みなさんもロックとGPSを。
しかし先月は怒涛の不運月間でした。今月に入りじわじわ調子が上向いてきたように思うので、頼みますよ!
ところで今フィギュアスケートやってますね。
決められた技を綺麗に決めて高得点を狙う選手達。
最近ではすっかり普通に見て応援してますが、一昔前は違う評価制でしたよね。
イナバウアー時代もかな??
芸術点というか、今では加点対象にならないからエキシビション以外ではなかなか見ない個性的な技。
今は『競技』なら、一昔前は『演技』だった気がします。
決まった技をいかにこなせたか、の競技の方が視聴者は分かりやすい。合理的に出される得点にも不平が少ない。
一方の演技は、審査員の好みによるところが大きいから、見ている視聴者の好みとズレれば得点不平が出る。
そりゃあ『競技』になったわけで。
フィギュアスケート番組がこんな頻繁にやるようになったのは、日本人選手の活躍はもちろん、それも原因の一つなのかなーと。わかりやすく楽しく応援しやすいから。
(とか言って一昔前の子どもの頃の記憶はあてにならないし業界人からしたら的外れだと思いますが)
勝手な憶測。
絵や書道もそんなところがありますよね。
「子どもでも描けるww」なんて素人目には思うような絵が、『有名な画家作』だったり『有名な画家に評価された』というブランドがつけば途端にとんでもない値がついてりして。
それをバカにした人がバカにされたりして。
うーん芸術の価値って難しい。
話は戻りますが、個人的には『間違えられない!!』という緊迫感と数字に換算されてしまうショートフリーよりも、その選手の好みや性格が出るエキシビションのほうが好きです。
それとは別に緊迫感というより気迫がとんでもない羽生くんの演技が好きです……というただの羽生クラスタ……笑
なんでしょうね、あの人はほかの選手と競ってるんじゃなく自分と競って、神にケンカふっかけてるような気がしますね。
強い人間はすごいなー……
結局羽生くんをほめて終わる、そんな今日のブログ。
フリー頑張ってねー